松島幸太朗はジンバブエ人と日本人のハーフ!父親はジャーナリストだった!

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2023年ラグビーW杯フランス大会に出場する日本代表の松島幸太朗選手。

持ち味であるステップとスピードを活かしてのトライ量産が期待されていますね!

類稀なるセンスに恵まれた松島幸太郎さんはジンバブエ人と日本人のハーフです。

いったいどのような生い立ちの選手なんでしょうか?

今回は松島幸太朗さんの出自について調査いたします!

 

松島幸太朗さんの愛称は「マツ」だよ!

松島幸太朗はジンバブエ人と日本人のハーフ

松島幸太朗さんはジンバブエ人である父と日本人の母の間で1993年、南アフリカ共和国の首都プレトリアで生を受けました。

両親はどんな経歴の持ち主なのでしょうか。

深掘りしていきます。

父親はジャーナリスト

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引用:スポーツ報知

松島幸太朗さんのお父さんはロドリック・ンゴロさんという方です。

イギリス植民地であったジンバブエで生まれ育ったロドリックさん。

当時はイギリスからの独立、そして白人・黒人による人種間での内戦など混迷を極めた時代でした。

差別や貧困という人生の不条理を経験したロドリックさんはのちに経済新聞記者、ジャーナリストとして活動するようになりました。

突然の死

人種による貧困・差別を経験してきたロドリックさん。

自身のライフワークとも呼べるアパルトヘイト問題解決に向けて積極的に活動していたそうです。

アパルトヘイト[=人種隔離政策]は,南アフリカ共和国で白人が黒人に対して行った差別政策のことです。 南アフリカ共和国は,かつてオランダやイギリスの植民地だった地域から成る国です。 少数の白人が政治的・経済的特権を維持するために,多数の黒人の自由を奪うアパルトヘイト (人種隔離政策)を制度化しました。

引用:進研ゼミ

日本で開催された差別撤廃世界会議のシンポジウムで講演した経験もあるそうですよ。

平等な社会を実現するために記事を書き、問題提起してきたロドリックさん。

そのために時の政権や他国の批判をすることもあったことでしょう。

使命感を持って仕事に臨む父の姿を松島幸太朗さんは誇りに思っていたそうです。

しかし、志半ばでロドリックさんは突然この世を去ることに・・

享年47歳。早すぎる死でした。

松島幸太朗さんが高校2年生の時だったそうで、父の死の報告を受けてから数日間部屋に引きこもるほどの衝撃を受けたそうです。

ロドリックさんの死因は不明で、死後3日後に自宅アパートで発見されたそうです。

現地メディアには「ジャーナリスト 謎の死」と報じられました。

ロドリックさんは当時、ある汚職事件を追及していたそうです。

取材対象者の恨みを買って命を狙われたのではないかとの憶測が飛んだそうですが真相は分かっていません・・

母親は元NGO研究員

松島幸太朗さんのお母さんは松島多恵子さんという日本人の方です。

元NGOの研究員で現在は社会福祉士として働いているそうですよ。

NGOとは、海外で活動する民間の非営利団体のことです。

NGOとは,Non-governmental Organization(非政府組織)の略称で,もともとは国連の場で政府以外の関係組織を示すのに使われていた言葉が広まったもので,最近では,NGOは開発,貧困,平和,人道,環境等の地球規模の問題に自発的に取り組む非政府非営利組織を指すのに使われています。

引用:外務省

多恵子さんは20代の頃に単身で南アフリカに渡り黒人居住区に滞在。

アパルトヘイト問題に取り組んでいたそうです。

国際社会問題に興味のある行動力のある女性だったんでしょうね!

この期間に将来の夫となるロドリックさんと出会ったと思われます。

自国の現状を憂いていた青年とNGOに参加するほど人種差別に敏感だった女性・・

お互いに惹かれ合うのは必然だったのかもしれません。

松島幸太朗を育てあげた母

松島幸太朗さんの父・ロドリックさんは南アフリカを活動の拠点にしていました。

そのため家にいることはほとんどなかったそうです。

多恵子さんは必然的に母ひとり、子ひとりの母子家庭状態のなかで松島幸太朗さんを育てられました。(松島幸太朗さんはひとりっ子です。)

一家の大黒柱は遠く離れた海外・・

日本でひとり子育てをするのには大変な苦労があったことでしょう。

象徴的なエピソードがあります。

それは松島幸太朗さんが小学生の時でした。

ジンバブエ人と日本人のハーフであり、周囲と肌の色が違うことでいじめに遭っていたという松島幸太朗さん。

日本は偏見や差別が少ないと言われますが、それは建前というフィルターがあるからでしょう。

子ども社会はそのフィルターが薄い分、大人の世界より残酷な面がありますね。

「ママの肌の色がいい」と母である多恵子さんに訴えたこともあるそうです。

多恵子さんはその時どんな感情だったのでしょうか。

なんとも切ない言葉です・・



しかし、これからも生きていく上でこのような場面に出会うことがたくさんあると多惠子さんは考えたのでしょう。

「ノーならノー。意見を伝えることが大切。」

と、息子に教えたのでした。

結果、松島幸太朗さんは「肌の色を言うのはやめて欲しい」という自分の意見を周囲に訴えることができる少年に成長することができたそうですよ。

親はいつでも子の味方ですが、24時間ずっと一緒にいることはできません。

松島幸太朗さんの将来を考えて、自分で自分の道を切り開いていくための金言を与えた多惠子さん。

母の想いはしっかりと息子に伝わっていますね!

 

いじめはダメ!絶対!

 

松島幸太朗の経歴

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引用::Getty Images

松島幸太朗さんは3歳の頃に日本に移住。

幼少期はサッカーやバレーに取り組んでいました。

小学生の頃の夢はサッカーファンだった父・ロドリックさんの影響もあり、「プロサッカー選手」だったそうですよ!

しかし、当時は練習がキツくなった途端に逃げ出してしまうメンタルの持ち主だった松島幸太朗さん。

将来を見かねた母・多惠子さんは松島幸太朗さんが12歳の時に父・ロドリックさんが活動の拠点にしていた南アフリカへ留学させます。

この南アフリカ留学で松島幸太朗さんはラグビーと出合うことになりました。

南アフリカの国技であるラグビー。

競技人口も盛んだったことでしょう。

スピードを活かして大柄な選手の間を颯爽と駆け抜けていく快感に酔いしれ、どんどんとラグビーにのめり込んでいったそうです。

日本に帰国後、名門桐蔭学園高校に進学。

2年生の時に最愛の父であるロドリックさんが急逝。

ふさぎ込む松島幸太朗さんを救ったのはラグビーでした。

3年生の時に冬の全国大会(花園)で初優勝。

準決勝で見せた自陣ゴール前からの100m独走トライは、高校ラグビー史に残る伝説として今も語り継がれているそうですよ!

高校卒業後は再び南アフリカへ単身で渡り、スーパーラグビーの強豪であるシャークスのアカデミーに加入しました。

3年後には20歳以下の南アフリカ代表から声がかかるほどの選手へと成長をとげますが、「日本代表として強いチームに勝ちたい」という気持ちを優先して帰国。

2014年にサントリーサンゴリアスに加入します。

同年、日本代表に初選出。

2019年自国開催となったラグビーW杯日本大会では、ロシアとの開幕戦でハットトリックを達成。

ラグビーブームの火付け役となりました。

2020年にフランス1部リーグのASMクレルモン・オーヴェルニュへ移籍。

欧州チャンピオンズカップ1次リーグのブリストル戦でハットトリックを達成しました。

2022年に古巣である東京サントリーサンゴリアスに復帰。

2023年、ラグビーW杯フランス大会での活躍が期待されています。

 

ゴールはここじゃない!

松島幸太朗のプロフィール

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引用:日本ラグビーフットボール協会

  • 本名:松島幸太朗 (まつしま こうたろう)
  • 生年月日:1993年2月26日
  • 出身地:南アフリカ共和国プレトリア
  • 身長:178cm
  • 体重:88kg

 

まとめ

ラグビー日本代表選手である松島幸太朗さんはジンバブエ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフであることが判明しました。

父・ロドリックさんはさまざまな社会問題にメスを入れるジャーナリストとして活躍。

母・多惠子さんは単身南アフリカに渡り、NGO研究員としてアパルトヘイト問題に取り組んだこともある活動的な女性でした。

その出自から、少ないながらも差別や偏見に見舞われたこともあった松島幸太朗さん。

彼を救い、そして支えてきたのは人種問題や社会の風潮と闘い続けた両親の教えとラグビーでした。

ラグビーの精神であるノーサイド

試合が終了すれば敵・味方の区別なく健闘を称え合い、和解するという概念です。

いつの日かすべての国や地域で差別や偏見がなくなり、お互いを称え合えるような社会が訪れるといいですね!

そのためには私たち一人ひとりの意識や関心の高まりがもっと必要です。

スポーツを通してグローバルな視点を養いたいものですね。

松島幸太朗選手のますますのご活躍を期待しています!

ガンバレ、ニッポン!

 

それでは、また

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